毎度失礼致します。ギリまだ4年、新社会人の清家と申します。先日卒業式と追いコンを済ませましたので流石に今回が最終回だと思います。
三校戦であれだけやりきった感を出していたのだからもう引退だろうという周囲の期待を裏切り、3/17に東工大で行われたデンジ杯という交流試合に出場していました。試技会の審判という大役を放棄した享楽主義的な行動には晩節を汚した等の批判も集まるところとは思いますが、旅の恥はかき捨てと言ったところでしょうか。僕にとって4年間の大学体操人生はまさに長旅でした。
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四国とかいう流刑地から上京してきて、夜が来ても飯が出てこないし、友達居ないし、部屋はエントロピーアゲアゲでカオスだし、壁からモスキート音がする。寂しい。辛い。2014年3月26日黒川食堂でぼっち飯。涙が垂れた。
4月1日テント列。前日ビラ袋の中からピックアップしていたサークルを回る。アメフトっぽい奴らがスクラム組んでたからタックルしたらドン引きされて通された。大学デビュー失敗。死にたい。運動はしたかったので、小さな体格が影響しないスポーツとか、大学からやる人が多いスポーツがよかった。小学生のころ体操教室(マットとか跳び箱)に行っていたので、体操も候補に入れた。ロンドン五輪を高2のときに徹夜で見ていたのもあるかもしれない。今の子はリオかな。
それで体操部のテントの前をウロチョロしてみたが一向に中に連れ込まれない。シャイボーイは逡巡の後自分から入っていった。すると中西さん(当時4年)が迎えてくれて、大学始めでも大車輪ができるようになること、バク転講習会なるイベントがあることを教えてもらった。中西さんの印象がめちゃくちゃ良かったので、半分くらい入部を決めていた。
人間的な話をすれば、一見するに、東大体操部に体育会系特有のギラギラした闘争心は感じられないかもしれない。しかし、OBの飯田さんもおっしゃっていたが、普段は別にイケイケでなくてもいいのだ。「練習入ります、お願いします」とトレーニング体育館に入った瞬間から彼らは躍動を始める。どんなに試験の成績が悪くても、どんなに素行が悪かろうとも、奇行が目立とうとも、大した問題ではない。体操に熱中しているときの彼らは本当に魅力に溢れている。
日は流れバク転講習会。クラスに溶け込むのに若干失敗した僕はここを終の棲家とすることに決めた。意外とバク転ってできるんだ。率直にそう思った。なので、これを読んでいる新入生がもし居れば是非気軽な気持ちでトレ体に来てみてほしい。きっとあの頃みたいに、優しい先輩たちが、バク転を教えてくれることだろう。その後のご飯は黒川食堂だった。今度は一人じゃなかった。ちょっと嬉しかった。
入部が決まった。よく大江さん(当時3年)にしごかれた。いつも被害を受けるのはキドケンと小矢野と僕だった。ごっちゃんは敢えて練習日を避けていたらしい。よく恨み節を言った。回想するに、すべてが新鮮だった。バク転はまあまあできたがその他が全く分からなかった。なぜ人間は鉄棒で回らなければならないのか?なぜ鞍馬などという器具が成立したのか?なぜ苗場の米はかくも盛られているのか?そのうちに分かることであるが、結論から言えば体操が楽しいからである。苗場は増量のために存在する。あの頃よく同期で集まって徹夜で鉄棒のゲームアプリをやった。本当のやり方はよくわかんないけど、体操好きになってきた。
もちろん楽しいばかりが体操ではなかった。怪我はするけど、だいたい続けるしかない。そういう旨の日紫喜さん(当時4年)の部員日記がよく印象に残っている。それでもネガティブになるのを抑えるのは至極大変だった。月並みな言葉を使えば、周りの皆のおかげで続けられたと言ったところだろうか…新入生に誤解がないように言っておくと、適切なプロセスを踏むことで怪我のリスクは最小限に抑えることができる。ので、何かをやるときにはよく先輩と相談してほしい。
2年生の後半くらいから―実力的には不甲斐ないものだがー人材不足の煽りを受け、団体に入り始めた。団体に入ると意識が変わる。自分が下手な責任は自分だけでなく部が負わなければならなくなる。点数のことを真剣に考え始めた。ポジティブなことも言っておくと、団体戦というのは本当に楽しい。仲間のミスを全員で挽回したり、各々が各々得意種目で魅せたり…全員がミスなく演技をやりきったときなど垂涎モノである。マジ卍である。現役諸氏は全員が団体入りを目標にしてほしいし、下級生にも先輩を打ち倒し団体入りを目指すという気概がほしい。決して不可能ではないのだから。
このあたりで、3年生になり自分が新歓代表をやった時の話をしたい。入部時のあの偉大な3年生たちに追いついてしまったというのは各学年が感じる”あるある”であろう。ちょっとおこがましいかもしれないが。実力的には大江さんや土居さんに追いつくどころか比べるべくもなかったが、せめて先輩として同様の働きをできるようにしようと思った。よく後輩をしごいた。だいたい大江さんのせいである。きっといろんなことがはるか昔から受け継がれてきている。もはやそれはトレ体に脈々と受け継がれてきた文化、風土と言って良い。たまに理由を誰も説明できない儀式的なものもあるが、それもまた面白い。
ただし、時にそれが成長を妨げることに留意しなければならない。往々にして人は身近な人を目標にする。誰々がやっているからやってみようと言った具合である。大学始めの選手においては―こと自分が該当するために―上級者と自分の間に線引きをしてしまうきらいがあるように思われる。「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、初めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」―これは三島由紀夫『金閣寺』に登場する一節である。意味としては、眼前に生じる全てを観念的に破壊しなければ解脱には至らないということである。東大体操部員は先輩を、師を、殺さねばならない。大学始めに床のシリーズは、後方のひねりは、平行棒のD難度は、コバチは、つり輪の倒立は、フロップは可能であろうか。先輩を殺した者のみが解脱に至り、結果を残す。彼もまた後進に殺されるべし。
4年生になって、やっとまともに体操ができるようになってきた。もしかしたらまともじゃないかもしれないが、自分の中ではなんとかまとまってきた。就活をやりながらの部活を不安視する声(リトル清家, 2017)もあったが、なんとか乗り越えた。定期試験だとか、就活だとか、院試だとか、部活やりながらでも意外となんとかなるものである。よしんばなんとかならなかったとしてそれが長い人生において本当になんとかならないのか考えてみたまえ。だいたいなんとかなる。きっと。きっと。
ちゃんと引退試合と銘打ったのは三校戦。本当に楽しくて、充実の演技ができて、有終の美を飾ることができた(前回日記参照)。それでも最後に痛感したのは、積み重ねの重要性である。まことよく言われる話ではあるが、毎月1%筋力を向上させれば4年間で筋力は常人の1.6倍になる計算だ。簡素化しすぎて誤謬しか生んでいないが、要するにそういうことである。強くなろうとするものはより強くなり、現状維持に留まるものとの差は俄然加速度的に開いていく。補強だけではなく体操のあらゆる側面―柔軟性、着地の技術、膝、つま先の意識など―において積み重ねを4年間続けた者と続けなかった者の差は歴然となる。自分は補強に関しては人並み以上であると自負しているが、こと柔軟において全く積み重ねてこなかった。なにかが足りなければ、いつか限界が来る。何を積み重ねるべきだったか先人たちは自分の経験を通して知っている。吸収し、継続し、継承すべきである。
デンジ杯。ひどい演技。でも、楽しい体操。これで、4年間の体操旅行を終える。また新しい旅が始まる。
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こんな感じの遍歴をフランクに語るつもりだったのですが、感極まって涙が止まらずろくすっぽ話せなかったので、代わりにカッチカチに改変した文章で失礼します。喋り始めて、これまでいろいろあったなあ、と思って、そういえば明日からトレ体に行けないんだなあと思うと、もうだめでした。
僕がどんな体操人生を歩んで、どんな事を考えたのか、を書いてみました。きっとどこかで読んだようなもの(過去部報とか)の集積になっていますが、出来る限り自分の言葉で語ったつもりです。
本当は部報の卒部論文に載せるべきなような内容ですが、いまいち追いコンまで卒部感がやってこなかったのでお許しください。
今日完全に部屋を引き払い、実家に帰る飛行機の中でこれを書いています。しばらくトレ体には行けないかもしれませんが、体操が、東大体操部が好きなのは変わりません。とかく伝えたいのは上のストーリーみたいな教訓じみたことじゃなくて、感謝です。先輩たちには、僕をここまで育てていただいてありがとうございました、ということ。同期には、目標となってくれて、一緒に最後までやり遂げてくれてありがとう。後輩たちには、まず部に入ってくれてありがとう。最後までついてきてくれてありがとう。本当に恵まれた体操人生でした。できればこれからも、続けられますように。
まだ見ぬ新入生たちへ。体操なんてよくわかんないと思うけど、少しでも興味があれば一度来てみてください。4年をかけるに値する部活だと思います。そして入ってくれた人は、いつかトレ体で会いましょう!
三校戦であれだけやりきった感を出していたのだからもう引退だろうという周囲の期待を裏切り、3/17に東工大で行われたデンジ杯という交流試合に出場していました。試技会の審判という大役を放棄した享楽主義的な行動には晩節を汚した等の批判も集まるところとは思いますが、旅の恥はかき捨てと言ったところでしょうか。僕にとって4年間の大学体操人生はまさに長旅でした。
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四国とかいう流刑地から上京してきて、夜が来ても飯が出てこないし、友達居ないし、部屋はエントロピーアゲアゲでカオスだし、壁からモスキート音がする。寂しい。辛い。2014年3月26日黒川食堂でぼっち飯。涙が垂れた。
4月1日テント列。前日ビラ袋の中からピックアップしていたサークルを回る。アメフトっぽい奴らがスクラム組んでたからタックルしたらドン引きされて通された。大学デビュー失敗。死にたい。運動はしたかったので、小さな体格が影響しないスポーツとか、大学からやる人が多いスポーツがよかった。小学生のころ体操教室(マットとか跳び箱)に行っていたので、体操も候補に入れた。ロンドン五輪を高2のときに徹夜で見ていたのもあるかもしれない。今の子はリオかな。
それで体操部のテントの前をウロチョロしてみたが一向に中に連れ込まれない。シャイボーイは逡巡の後自分から入っていった。すると中西さん(当時4年)が迎えてくれて、大学始めでも大車輪ができるようになること、バク転講習会なるイベントがあることを教えてもらった。中西さんの印象がめちゃくちゃ良かったので、半分くらい入部を決めていた。
人間的な話をすれば、一見するに、東大体操部に体育会系特有のギラギラした闘争心は感じられないかもしれない。しかし、OBの飯田さんもおっしゃっていたが、普段は別にイケイケでなくてもいいのだ。「練習入ります、お願いします」とトレーニング体育館に入った瞬間から彼らは躍動を始める。どんなに試験の成績が悪くても、どんなに素行が悪かろうとも、奇行が目立とうとも、大した問題ではない。体操に熱中しているときの彼らは本当に魅力に溢れている。
日は流れバク転講習会。クラスに溶け込むのに若干失敗した僕はここを終の棲家とすることに決めた。意外とバク転ってできるんだ。率直にそう思った。なので、これを読んでいる新入生がもし居れば是非気軽な気持ちでトレ体に来てみてほしい。きっとあの頃みたいに、優しい先輩たちが、バク転を教えてくれることだろう。その後のご飯は黒川食堂だった。今度は一人じゃなかった。ちょっと嬉しかった。
入部が決まった。よく大江さん(当時3年)にしごかれた。いつも被害を受けるのはキドケンと小矢野と僕だった。ごっちゃんは敢えて練習日を避けていたらしい。よく恨み節を言った。回想するに、すべてが新鮮だった。バク転はまあまあできたがその他が全く分からなかった。なぜ人間は鉄棒で回らなければならないのか?なぜ鞍馬などという器具が成立したのか?なぜ苗場の米はかくも盛られているのか?そのうちに分かることであるが、結論から言えば体操が楽しいからである。苗場は増量のために存在する。あの頃よく同期で集まって徹夜で鉄棒のゲームアプリをやった。本当のやり方はよくわかんないけど、体操好きになってきた。
もちろん楽しいばかりが体操ではなかった。怪我はするけど、だいたい続けるしかない。そういう旨の日紫喜さん(当時4年)の部員日記がよく印象に残っている。それでもネガティブになるのを抑えるのは至極大変だった。月並みな言葉を使えば、周りの皆のおかげで続けられたと言ったところだろうか…新入生に誤解がないように言っておくと、適切なプロセスを踏むことで怪我のリスクは最小限に抑えることができる。ので、何かをやるときにはよく先輩と相談してほしい。
2年生の後半くらいから―実力的には不甲斐ないものだがー人材不足の煽りを受け、団体に入り始めた。団体に入ると意識が変わる。自分が下手な責任は自分だけでなく部が負わなければならなくなる。点数のことを真剣に考え始めた。ポジティブなことも言っておくと、団体戦というのは本当に楽しい。仲間のミスを全員で挽回したり、各々が各々得意種目で魅せたり…全員がミスなく演技をやりきったときなど垂涎モノである。マジ卍である。現役諸氏は全員が団体入りを目標にしてほしいし、下級生にも先輩を打ち倒し団体入りを目指すという気概がほしい。決して不可能ではないのだから。
このあたりで、3年生になり自分が新歓代表をやった時の話をしたい。入部時のあの偉大な3年生たちに追いついてしまったというのは各学年が感じる”あるある”であろう。ちょっとおこがましいかもしれないが。実力的には大江さんや土居さんに追いつくどころか比べるべくもなかったが、せめて先輩として同様の働きをできるようにしようと思った。よく後輩をしごいた。だいたい大江さんのせいである。きっといろんなことがはるか昔から受け継がれてきている。もはやそれはトレ体に脈々と受け継がれてきた文化、風土と言って良い。たまに理由を誰も説明できない儀式的なものもあるが、それもまた面白い。
ただし、時にそれが成長を妨げることに留意しなければならない。往々にして人は身近な人を目標にする。誰々がやっているからやってみようと言った具合である。大学始めの選手においては―こと自分が該当するために―上級者と自分の間に線引きをしてしまうきらいがあるように思われる。「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、初めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」―これは三島由紀夫『金閣寺』に登場する一節である。意味としては、眼前に生じる全てを観念的に破壊しなければ解脱には至らないということである。東大体操部員は先輩を、師を、殺さねばならない。大学始めに床のシリーズは、後方のひねりは、平行棒のD難度は、コバチは、つり輪の倒立は、フロップは可能であろうか。先輩を殺した者のみが解脱に至り、結果を残す。彼もまた後進に殺されるべし。
4年生になって、やっとまともに体操ができるようになってきた。もしかしたらまともじゃないかもしれないが、自分の中ではなんとかまとまってきた。就活をやりながらの部活を不安視する声(リトル清家, 2017)もあったが、なんとか乗り越えた。定期試験だとか、就活だとか、院試だとか、部活やりながらでも意外となんとかなるものである。よしんばなんとかならなかったとしてそれが長い人生において本当になんとかならないのか考えてみたまえ。だいたいなんとかなる。きっと。きっと。
ちゃんと引退試合と銘打ったのは三校戦。本当に楽しくて、充実の演技ができて、有終の美を飾ることができた(前回日記参照)。それでも最後に痛感したのは、積み重ねの重要性である。まことよく言われる話ではあるが、毎月1%筋力を向上させれば4年間で筋力は常人の1.6倍になる計算だ。簡素化しすぎて誤謬しか生んでいないが、要するにそういうことである。強くなろうとするものはより強くなり、現状維持に留まるものとの差は俄然加速度的に開いていく。補強だけではなく体操のあらゆる側面―柔軟性、着地の技術、膝、つま先の意識など―において積み重ねを4年間続けた者と続けなかった者の差は歴然となる。自分は補強に関しては人並み以上であると自負しているが、こと柔軟において全く積み重ねてこなかった。なにかが足りなければ、いつか限界が来る。何を積み重ねるべきだったか先人たちは自分の経験を通して知っている。吸収し、継続し、継承すべきである。
デンジ杯。ひどい演技。でも、楽しい体操。これで、4年間の体操旅行を終える。また新しい旅が始まる。
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こんな感じの遍歴をフランクに語るつもりだったのですが、感極まって涙が止まらずろくすっぽ話せなかったので、代わりにカッチカチに改変した文章で失礼します。喋り始めて、これまでいろいろあったなあ、と思って、そういえば明日からトレ体に行けないんだなあと思うと、もうだめでした。
僕がどんな体操人生を歩んで、どんな事を考えたのか、を書いてみました。きっとどこかで読んだようなもの(過去部報とか)の集積になっていますが、出来る限り自分の言葉で語ったつもりです。
本当は部報の卒部論文に載せるべきなような内容ですが、いまいち追いコンまで卒部感がやってこなかったのでお許しください。
今日完全に部屋を引き払い、実家に帰る飛行機の中でこれを書いています。しばらくトレ体には行けないかもしれませんが、体操が、東大体操部が好きなのは変わりません。とかく伝えたいのは上のストーリーみたいな教訓じみたことじゃなくて、感謝です。先輩たちには、僕をここまで育てていただいてありがとうございました、ということ。同期には、目標となってくれて、一緒に最後までやり遂げてくれてありがとう。後輩たちには、まず部に入ってくれてありがとう。最後までついてきてくれてありがとう。本当に恵まれた体操人生でした。できればこれからも、続けられますように。
まだ見ぬ新入生たちへ。体操なんてよくわかんないと思うけど、少しでも興味があれば一度来てみてください。4年をかけるに値する部活だと思います。そして入ってくれた人は、いつかトレ体で会いましょう!