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採点規則を越えて行け

 11月に入ってからは秋晴れの日が多く、今月が誕生月に当たる私としては嬉しい限りです。銀杏並木が色付き始めた駒場と本郷では、絵描きやカメラマンの方々をよく見るようになりました。

目次
1. 自己紹介
2. ニュース:OBOG戦
3. 今回の主題 〜採点規則を越えた体操〜
 3-1. 採点規則と法
 3-2. 採点規則の本質
 3-3. 結論


1. 自己紹介
 こんにちは。先月再入部しました丸山哲生です。
 2013年に文科三類に入学、体操部へ入部したのち、2015年に教育学部へ進学、体操部を退部しましたが、2017年に文学部へ転学、体操部へ再入部させて頂きました。
 人の心や文化に関する興味から文科三類に入学するも、前期教養課程では生物学に感動し教育学部の身体教育学コースへ進学して神経科学を学んでいましたが、やはり人文学に戻りたいと思い、現在は文学部哲学専修課程の3年生をやっております。
 高校までは合唱部と山岳部の所属で、体操競技は大学からです。大学2年次には選抜メンバーに入れてもらいました。退部したことに心残りがあり、こうしてまた体操部にいさせてもらっております。
 どうぞよろしくお願い致します。


2. ニュース:OBOG戦
 去る11月3日文化の日、毎年恒例の「OBOG戦」が駒場キャンパストレーニング体育館にて開催されました。晴れの特異日だけあって、窓から差し込む太陽光の眩しい日でありました。
 OBOG戦というのはOBさんやOGさんと現役部員らが参加する試合というものであり、東大体操部内の内輪の試合です。今年は、現役部員に限って11月18・19日に行われる「15大学対抗体操競技交歓大会(通称霜月杯)」の出場メンバーの選考会を兼ねておりました。現役を引退されて久しい(?)OBやOGの皆さんの見事な演技に拍手が沸きます。試合後には懇親会があり、現役部員は自分の倍以上長く生きてきた先輩方のお話を伺うことができるわけですが、これは大変勉強になります。


3. 今回の主題 〜採点規則を越えた体操〜
 さて今回の部員日記ですが、たった今述べたようにOBOG戦は内輪のもの。これについて事細かに書いても内輪ネタで盛り上がることにしかならないでしょう。振り返りは部内誌の担当者にお任せすることとして、世界に発信する場では何か別のことを論じましょう。
 そこで僭越ながら今回は、私が最近体操競技について考えたことを書かせていただこうと思います。お題は「採点規則を越えた体操」。

3-1. 採点規則と法
 前回下田が報告してくれた新人戦(正式名称:関東学生新人体操競技選手権大会)の観戦中、ある文を思いつきました。試合会場のある宇都宮へ向かう道中読んでいた『法学入門』にあったテーゼ「法解釈には法を離れたところにある価値観が肝要」からの連想です:

  体操競技には採点規則を離れたところにある価値観が肝要

まず断っておきますが、私は法学部生ではなく、法学は初心者です。いえ、専攻の哲学ですらまだまだ超初心者ですが…。しかしある程度のアナロジーが成立することは認めてもらえるでしょう。抽象度の高い「法」を具体的な問題に適用するのが「法解釈」である一方、究極の模範的な演技しか載せていない「採点規則」でもって十人十色の演技を採点するのが「体操競技」な訳ですから。
 このアナロジーから何が言いたいのか。法においてすら且つ法から離れた価値観が重んじられるべき、況や体操競技においてをや、ということであります。

 まず法の方から。なぜ法解釈において重んじられる価値観が法から離れてしまって良いのでしょう?それは法が目的ではなく手段に過ぎないためです。何の手段か。それは現実の紛争を解決するための道具です。まずもって社会の問題を解決したいという価値観があった上での法なのです。そうやってできた法である以上、もちろんそれは、それに従っていれば社会が円滑に回るもののはずです。しかし法は、様々な事象に適用できるよう、ある程度抽象的にできています。この抽象性には隙が生まれ、違法スレスレのことができてしまい兼ねない。しかしそれでは紛争を防ぎきれない。それゆえに大事なのが法の背景にある理念を念頭に置いた法解釈になります。「図書館内でシャボン玉を吹いて良いか」と問われたら、そういった規定がなくてもダメだと答えるでしょう。「図書館内では原則飲食禁止」という規定があるから類推解釈(あるいは論理解釈)するわけです。
 さて、これを体操競技に置き換えるとどうなるか。
 なぜ我々は採点規則に則って体操競技をするのか…。無論その答えは人それぞれでありますが、そこに共通して「審美的な価値の追求」があるのは疑いないことではないでしょうか。現行の採点規則も総則的にそのことを示しています:

  8-3条 選手への指針
  1. 選手は、安全が保証され、美的に洗練され、かつ技術的に習熟している技だけで演技を構成しなければならない。〔中後段省略〕
  2. 選手は、美的、技術的実施を無視して難度やDスコアを高めてはならない。〔以下省略〕
 
この規定を直接破っても選手が減点を食らうことはありません。破ったかどうかを客観的に判断するのが難しいからです。ですからこの総則を具体化するために様々な規定――宙返りの着地減点、十字懸垂の角度減点、大車輪の停滞減点など――があるわけですが、これらをすべてクリアするのに「点数アップ」だけがインセンティブになるとは到底思えない。根本的なところに、人体に可能な驚異的な運動に対する感動がある。やはり体操競技の採点規則は、「体操」に向けられた美的感情をなんとか定量化するための手段であるように思われます。
 しかし私たちは、法と同様採点規則もまた手段にすぎないはずなのに、ときに採点規則を目的化していないでしょうか。美しいかどうかなど考えずに、試合で点を稼ぐことに執着してはいないでしょうか。
 たしかに採点規則に則れば、演技を構成する技の数や種類、難度でもって点数を稼ぐことはできます。しかし体操競技から美の意識を取り去って無理して技を取り入れてしまったらどうなるのでしょうか。
 第一に、危険。洗練された動きは、決まってケガの少ない動きです。オリンピック選手の演技を見ていてケガをしないかと肝を冷やすことは頻繁にはないでしょう。他方、自戒を込めて書きますが、下手くそな選手の演技は見ていて気が気でない。見に来て下さったお客さんを心配させてしまう。
 第二に、醜さすら感じられる。新人戦において某J大学の選手がつり輪で完璧な「後ろ振り上がり支持(A難度)」をやって見せたときに感じられたのは、そこで無理して「後ろ振り上がり倒立(C難度)」をしない謙虚さ、A難度であっても丁寧にこなす矜持、そしてその技自体において発揮される身体美でした。他方、初心者が背伸びして実施する技は、どうしても分不相応の観、見栄を張る気持ちが伺われる(繰り返しますが、自戒を込めて書いています)。謙虚さも矜持もなく、美など感じられようもない。美の対局をなす演技と言うべきでしょう。

  〔…〕不堪の芸をもちて堪能の座に列なり、〔…〕況んや、及ばざる事を望み、叶はぬことを憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥ずかしむるなり。(『徒然草』第百三十四段)

 「法解釈の話でしたよね?法解釈の主体である裁判官に当たるのは体操競技においては審判では??」という疑問があるかと思います。ここでは選手各々が心の内に持つ審判というものをお考え下さい。自他の身体美を評価する、美の審判をです。
 各々が、試合のみならず練習や観戦の最中に、採点規則に依存しない価値観でその体操を見つめる。法律家らが事件に臨んで原点たる紛争解決を求めるように、我々にも文面から離れた価値観の軸が必要ではないでしょうか。

3-2. 採点規則の本質
 ならばなぜ美を追求しない体操競技があり得てしまうのか。
 美など考えずとも人はスポーツをできてしまうからです。何か障害を設けて自らにミッションを課し、それに夢中になる。夢中になることで日々の退屈さをdesporterする(仏語で「運び去る」の意。sportの語源)。極論すれば、熱中できるのであれば、ルールは何でもよいわけです。その何でもよいルールの内で、とりわけ美を意識して点数化したのが体操競技を含む採点競技であって、競争を原理として成り立っているのが対戦競技と考えることができます。
 対戦競技は、競争の成立がカギになる分、身体の動きに関するルールには融通が利きます。手を使わずに球を網の中に蹴り入れるだなんて、別のルールでもあり得たはずです。事実、サッカーはラグビーと分裂した歴史を持ちます。他方、採点競技は、美という価値観に拘束される以上、身体運動の融通が利かない。無論、何が美かという価値観の変遷は考慮すべきですが、とはいえ例えばフィギュアスケート選手が演技中に転倒するのを美的に高評価する時代というのはなかなか来そうにありませんよね…?
 興奮を得るため、とりわけ美的な興奮を得るために、我々が我々自身に課すミッション。これを冊子の形式にまとめたのが、我々が手にしている、かの採点規則ということになりましょう。

3-3. 結論
 採点規則が評価しようとする「背後の美意識」を念頭に、体操に取り組みたいものである――これが先日の新人戦の観戦を通じて私が考えたことです。
 あるいはこれは、大学1年生の時に部室で読んだマンガ『ガンバ!Fly high』の「きみの体操は何か」という問いかけに対する私の応答とも言えます。

 ではこの「美」はどこから来たかって?おそらくそれは我々が進化の過程で得た、どこか官能的なものではないかと、ここでは直感を記すに留めます。ヒトにはヒトの、アリにはアリの、ナマコにはナマコの身体美があるように思えるからです。ギリシャの哲学者クセノファネスから引用します。

  …yes, and if oxen and horses or lions had hands, and could paint with their hands, and produce works of art as men do, horses would paint the forms of gods like horses, and oxen like oxen, and make their bodies in the image of their several kinds…


 昔、語学のクラスの友人から「体操競技って奥が深そう」と言われ、それが私の感覚と一致していたことから「でしょう」と答えたのですが、自分でもどう奥が深いのかが説明できませんでした。ようやく体操競技に対する自分の直感を少しばかり説明できるようになった気がします。

 これで今回の部員日記を終わります。

                         丸山哲生  
コメント
訂正(3-1. 第9段落)
誤)美の対局をなす演技
正)美の対極をなす演技
  • 丸山哲生
  • 2017/11/15 2:51 PM
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